徳永商店社長ののブログ

lifework

トイレ掃除で年収差

おもしろい記事を見つけましたので、転載します。

トイレ掃除と世帯年収に因果関係あり?

トイレをきれいにしている人と そうでない人とでは、世帯年収に約90万円の差があるとの
アンケート結果がでました。この結果についてみなさんはどう思われますか?

私も昨年から会社のトイレ掃除を担当するようになり、恥ずかしながら、この年になって
トイレ掃除の意味と効果が分かるようになりました。

トイレ掃除の一番の効果は、トイレを磨く人の心もきれいにするということではないでしょうか。
また、トイレをきれいしたいと思う気持ちが自然に芽生えてくるようになると、
自分は何でもできると、自信がもてるようになります。不思議です。

人間が生きる上で、最も大切なのは「心のもちかた・考え方」です。
トイレ掃除を一生懸命行うことが心を磨き、心に磨きがかかれば、徳も高くなる。
そして、周りからの信頼も高くなり、責任のある仕事を任せてもらえるようになる。
結果としてそれが給料に反映される。簡単に言うとそういうことではないでしょうか。

トイレ掃除とともに、心も磨いてみませんか?



以下転載記事です。


NHK紅白歌合戦で披露され、大ヒットソングとなったアーティスト・植村花菜さんの楽曲『トイレの神様』は、“トイレ掃除”の場面が描かれていることで有名だが、今回は、世間の“トイレ掃除事情”についてアンケートを実施。トイレをキレイにしている人と、そうでない人とでは、「世帯年収に約90万円の差がある」という驚くべき事実が明らかになった。

ライオンは、今回、20?39歳の男女490人に対して「トイレの清潔さに関する比較調査」を実施。風水などでは、「トイレをキレイにしていると、金運がアップする」などといわれているが、実際に調査対象者を“ピカピカトイレ派(245人)”と“残念トイレ派(245人/トイレをキレイにしていない人のこと)”の2派に分け、「あなたは金運が良い方だと思うか?」と質問。すると、“ピカピカトイレ派”は、42%が「思う」と回答したが、一方で、“残念トイレ派”で「思う」と答えたのは、22%と少数だった。

さらに、年収についても聞いてみると、明らかな違いが発覚!“ピカピカトイレ派”の平均個人年収は261万円、“残念トイレ派”の平均個人年収は237万円となり、24万円の差が出てしまったのだ。そして、「世帯年収」についても聞くと、“ピカピカトイレ派”の平均は542万円、“残念トイレ派”の平均は454万円。なんと、90万円近くの差が出る結果となった。

「トイレをキレイにしているかどうか」で、なぜここまで調査結果に差が出るのだろうか?“ピカピカトイレ派”と“残念トイレ派”の、性格や意識の違いを調べてみると…。“ピカピカトイレ派”は、「段取り」が良く、「友人」が多い傾向にあることが明らかに。社交性が高く、仕事や対人関係でそういった面が評価されやすいのではないか、ということが分かった。「トイレをキレイにしていると、友だちも家に気兼ねなく呼べて、人との関わりも増えて、人生が楽しくなる」(33歳・主婦)など、“ピカピカトイレ”イコール“招福”と考える人は、実際に多数いる模様だ。

ちなみに、トイレをキレイにしている人に「トイレ掃除で工夫していること」を聞いてみると、「汚れに気が付いたらすぐに拭き取る」(35歳・未婚女性)、「トイレットペーパーでこまめに便器・床を拭く」(37歳・未婚男性)など、“気付いたらすぐ”や“頻繁に”掃除するという意見が多く上がった今回の調査。立派な年収をGETするためにも、今日からこまめに掃除し“ピカピカトイレ”を目指してみるのはいかがだろうか。【東京ウォーカー】


投稿日時:2011.02.04(Fri) 20:33:00|投稿者:tokunaga

水野屋さん

宮崎県西都市に本店を構える老舗の和菓子店「水野屋」さん。

おいしい和菓子を作る有名なお店です。
その水野屋さんの包装紙について紹介したいと思います。
ふつう包装紙は商品を包む(飾る)ことを目的として、作られていますので、
包装紙として利用された後は、そのまま捨てられてしまうことがほとんどだと思います。

そこで水野屋さんは、包装紙に一工夫こらして再利用してもらおうと考えたのだと思います。
下の写真がその包装紙です。

1 包装紙の表面
水野屋さんの包装紙

2 包装紙の裏面
水野屋さんの包装紙

3 展開図と完成品(しわを伸ばせば、きれいな封筒ができあがります)
水野屋 包装紙

包装紙を裏返すと、封筒の絵(展開図)が印刷されています。
封筒の形に印刷されている線をはさみで切り取り、糊付けすると封筒ができあがります。

包装紙を封筒として再利用するためには、包装紙の裏面の印刷代や、紙質を高めるなどのコストアップが生じます。それにもかかわらず、包装紙の細部にまで気を配るところに、水野屋さんの経営理念が垣間みられる気がします。このすばらしいアイデアを実行された(創造と実行)水野屋さんにエールを贈りたくなりました。

話はかわりますが、私が子供の頃、母は頂き物などの包装紙をきれいに剥がしてとっておき、
何かの包装や装飾の紙として再利用していました。また、新聞の折り込みチラシ(裏が白紙)をメモ用紙の大きさに切って使っていました。現在のように物が溢れている時代ではありませんでしたから、一つ一つのものを大事に、丁寧に扱っていました。
昔の日本人には、ふだんの生活の中に物を大切にする(もったいない)心と知恵が、当たり前のように根付いていました。これぞ日本人の美徳ではないでしょうか。

投稿日時:2011.01.17(Mon) 20:59:59|投稿者:tokunaga

新聞のコラム

今年もあと残り3週間になりました。走馬灯のように一日が過ぎて行きます。
さて、本日のたかじん「そこまで言って委員会」(TV番組)のテーマは、
今年の新聞各社の社説とコラムから大賞を選ぶというものでした。

そこで、私も購読している日本経済新聞のコラム「春秋」欄から特に印象に残った記事を
選んで紹介したいと思います。
私は印象に残った記事を切り取って、手帳に挟み、時々読み返すことにしています。
これは、今年切り取った5つのコラムの中の一つです。

日本経済新聞 『春秋』

松下幸之助さんの大番頭といえば、高橋荒太朗さんの名前が挙がる。
朝日乾電池という会社で経理の制度をつくった実績を見込まれて、
松下電器産業(現パナソニック)に転じた。が、「経営の神様」が買った点は
ほかにもあったろう。

需要が減り始めた商品から伸びている製品へ、生産を機敏に切り替えたことだ。
1929年、25歳で高橋さんが朝日乾電池の常務に抜てきされた時、主力商品はラジオ用電池。
だが技術革新でラジオに電池がいらなくなった。そこで需要増が見込める自転車ランプ用電池に
的を絞った。変化を読み会社を改造した。

経営改革を高橋さんが始めた29年は世界恐慌が起きた年だ。
不況が深刻なほど内向きになり、コスト削減でしのごうとしがち。
新しい収益源を生んだ高橋さんの手腕を松下幸之助さんは評価したに違いない。
リーマン・ショック後の不況から日本は抜け出せていない。成長の道筋を、
企業はつけているだろうか。

高橋さんは神戸の商店で働きながら簿記を学んだ。朝日乾電池の改革では工場に常駐して
従業員を指揮した。ラジオ用電池の生産が減っていく様子を工場で目にし、
製品を変える決意は強まったろう。現場には発見がある。もっと現場に出よ。
成長戦略を描ききれていない経営者に、そう呼びかけているようにみえる。

投稿日時:2010.12.12(Sun) 16:02:44|投稿者:tokunaga

捨てる決断、アップルの教訓

今朝の日経新聞のコラムにアップル社に関する記事がありましたので、一部紹介させていただきます。日本経済新聞記事 「一目均衡」 (編集委員 西條郁夫氏)より

apple


捨てる決断、アップルの教訓

21世紀の最初の10年が過ぎつつあるが、この間最も輝いた企業はどこだろう。
独断と偏見で選ぶなら、経営危機の瀬戸際から「株式時価総額でIT(情報技術)企業の世界一」
にまで復活した米アップルの名を挙げたい。

十数年前のアップルは内紛や商品戦略の失敗が続き、お粗末の一言。
旗艦「マッキントッシュ」は昔からのファンを引き留めるのが精いっぱいで、
IT革命が生んだ新規のユーザーは競合のマイクロソフト陣営に持って行かれた。
今はやりの言葉を使えば、世界の大勢から孤立し、仲間内で盛り上がる
「ガラパゴス商品」の色彩が強かった。

創業メンバーだったスティーブ・ジョブズ最高経営責任者(CEO)が1997年に
アップルに復帰して真っ先に手掛けた仕事は何だったか、アップル全盛の今しか
しらない若い読者にとっては驚きだろう。
ライバルであり、旧知の仲でもあるマイクロソフトのビル・ゲイツ会長(当時)に、
二つのことを頼み込んだ。

一つは「ワード」などマイクロソフトの応用ソフトをアップル製品でも
動かせるように改良してほしいという依頼、もう一つは資金援助(出資)
だ。幸いこの二つの頼みをゲイツ氏は応諾し、アップルは幸うじて命脈をつないだ。

そこまで追いつめられたアップルが復活できた原動力は何か。
大きかったのは「捨てる決断」である。

同社は2001年に従来の基本ソフト(OS)に見切りをつけ、「OS X(テン)」
と呼ぶ新OSに切り替えた。
コンピューターの頭脳であるOSの全面刷新は半端なことではない。
OSがバージョンアップではなく新規のモノに切り替われば、
以前のOSに準拠した応用ソフトや使い手の熟練は水泡に帰す。
古くからのアップルファンには抵抗もあったが、ジョブス氏の決断で押し切った。

その理由は、多機能端末「iPad(アイパッド)」をいじってみれば、すぐ分かる。
iPadの使い勝手はパソコンというよりテレビに近い感覚で、電源を入れると
ほぼ同時に画面が立ち上がる。競合ソフトに比べて、アップルのOSが
それだけ「軽い」からだ。

旧OSにしがみついたままでは、アップルを支える商品競争力は生まれず、
今日の繁栄はなかっただろう。「捨てる決断」が功を奏したのである。

以下省略いたします。

下の写真は記念すべき最初の手作りパソコン APPLE 1
自分たちで設計した電子回路をベニアの箱に納め組みあげたもの。
アップルコンピュターの原点というべき製品です。
アップルが30数年後にiPad や iPodなどの製品を生み出す会社になろうとは、
誰も想像していませんでした。

apple1

編集委員の西條氏が綴っているように、
ジョブズ氏はコンピュータのソフトとハードの両方で、
大胆な取捨選択を行ってきました。
現在採用している製品に発展の余地を見いだせなくなった時、
現在の製品をはるかに凌ぐ有益な技術が開発された時、
どちらの技術が将来の可能性があるのかを即座に判断してきました。

例えば、パソコンの頭脳であるCPU(中央演算処理装置)をintel製に、
基本ソフト(OS)をunixベース(原型はnext step)の全く新しいものに
変更しました。
また、初代iMacからフロッピーディスクの標準装備を止め、
パソコンと周辺機器をつなぐケーブルに業界で初めてUSBを採用したりと
常に時代の先を見据えて、製品の開発を行ってきました。
アップルが先進性を重視するあまり、ユーザーは製品の互換性の問題に
何度鳴かされてきたことでしょうか(涙)

既存ユーザーの批判にも関わらず、ジョブズ氏は
パソコンの製品の未来の形を想像しながら、良いもの、必要と判断したものは
多少難があったとしても積極的に取り入れてきました。

試行錯誤、成功と失敗を繰り返しながら、
アップルは歴史上稀に見る復活を成し遂げることに成功しました。

次回はマックの長期ユーザーとしての視点でアップル復活劇について、
話してみたいと思います。

つづく

apple old logo mark

30数年前にデザインされた初期のアップルロゴマーク
6色のカラーが美しいです。
 

投稿日時:2010.10.28(Thu) 08:54:15|投稿者:tokunaga

三方よしの理念

「売り手よし、買い手よし、世間よし」という「三方よし」の経営理念で、
江戸時代に商いを展開した近江商人(現在の滋賀県)。

成熟した日本の社会の中で商いを伸ばして行くためには、
この近江商人の経営理念が、とても重要な意味を持つことに気づきました。

絶対的な物不足の時代には、市場が求めている商品を作りさえすれば
それほど苦労することなく商品は売れました。

しかし現在の日本の様に、モノが隅々まで行き渡り、
人々のモノに対する欲求の度合いや価値観が多様化する中で、
お客様に選んでいただける商品を作って行くには
大変な時代になったと感じます。

商いに王道があるとすれば、
それは「三方よし」の精神ではないでしょうか。

商品を売っている私にもよいけれど、それを買ってくれる人にもよいし、
また社会の役にも立っている。

この理念に当てはまる物やサービスを継続して提供できる企業は
時代が変わっても社会から必要とされ続けることでしょう。

成熟した木材業界の中で、私たちが生き残って行くためには、
「三方よし」の理念に合致した商品を社会に提供できるかどうか
が重要な鍵になります。

その答えはまだ霧の中に隠れてはっきりと見えていませんが、
進むべき方向性は見定めたいと思います。


以下 近江商人についての説明文を(財)滋賀県産業支援プラザのHPから一部抜粋させていただきました。

取引においては、当事者の売り手と買い手だけでなく、その取引が社会全体の幸福につながるものでなければならないとう意味での、売り手よし、買い手よし、世間よしという「三方よし」の理念は、近江商人の経営理念に由来する。

国名を近江という現在の滋賀県に属する地域からは、江戸時代から明治期にわたって、近江商人と呼ばれる多くの大商人が次々に出現した。彼らは近江に本宅を構え、行商の初期には上方の商品と地方物産の有無を通じる持下(もちくだ)り商いに従事し、資産ができると要地に複数の出店を築き、産物廻しという持下り商いの大規模化した商法を出店間で実施して、さらに大きな富を蓄積した。近江商人という人々は、地元の近江を活動の場とするのではなく、近江国外で活躍し、原材料(地方物産)の移入と完成品(上方商品)の移出を手がけ、現在の日本の経済と経営を先取りするような先進的な商人達であった。

江国外での他国行商を本務とした近江商人は、行商先の人々の間に信用という目に見えない財産を築いていかなければならなかった。持下り商いは、一回きりの売込みではなく、自分が見込んだ国や地域へ毎年出かけ、地縁や血縁もないところに得意先を開拓し、地盤を広げていかなければならないのである。

境を行商してまわり、異国に開いた出店を発展させようとする近江商人にとっては、もともと何のゆかりもなかった人々から信頼を得ることが肝心であった。その他国商いのための心構えを説いた近江商人の教えが、現代では「三方よし」という言葉に集約して表現されるようになったのである。 「三方よし」の直接の原典となったのは、宝暦4(1754)年に70歳となった麻布商の中村治兵衛宗岸(そうがん)が15歳の養嗣子に認めた書置(かきおき)のなかの次の一節である。

たとへ他国へ商内に参り候ても、この商内物、この国の人一切の人々、心よく着申され候ようにと、自分の事に思わず、皆人よき様にと思い、高利望み申さずとかく天道のめぐみ次第と、ただその行く先の人を大切におもふべく候、それにては心安堵にて、身も息災、仏神の事、常々信心に致され候て、その国々へ入る時に、右の通りに心ざしをおこし申さるべく候事、第一に候


の条文は以下のように読み解くことができる。
他国へ持下り商いに出かけた場合は、持参した商品に自信をもって、その国のすべての人々に気持よく使ってもらうようにと心がけ、その取引が人々の役に立つことをひたすら願い、損得はその結果次第であると思い定めて、自分の利益だけを考えて一挙に高利を望むようなことをせず、なによりも行商先の人々の立場を尊重することを第一に心がけるべき
 である。欲心を抑え、心身ともに健康に恵まれるためには、日頃から神仏への信心を厚くしておくことが大切である。

「三方よし」の原典となったこの条文は、明治になってから井上政共編述『近江商人』のなかで、「他国へ行商するも、総て我事のみと思わず、その国一切の人を大切にして、私利を貪(むさぼ)ることなかれ、神仏のことは常に忘れざるよう致すべし」と、簡潔に要約されている。まさに「三方よし」の精神以上に、近江商人の到達した普遍的経営精神を示すものはないといってもよいであろう。」

(三方よしの理念 出典 財団法人滋賀県産業支援プラザホームページ )

投稿日時:2010.10.05(Tue) 22:10:00|投稿者:tokunaga
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