京セラ 太陽電池事業について

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今回のソーラー発電事業でご縁をいただいたのは京セラ(株)の太陽電池モジュールです。

京セラのソーラー事業の経緯について、京セラの創業者 稲盛和夫氏が著書「燃える闘魂」の中で語っていますので、少し紹介したいと思います。

以下「燃える闘魂」より抜粋

1973年、第一次オイルショックが起こったとき、世界中で石油に変わる代替エネルギーを開発しなければならないとの声が上がった。1974年には、日本でもサンシャイン計画がスタートし、様々な太陽電池の研究開発が行われるようになった。

わたし(稲盛氏)と太陽電池との出会いは、その前年の1973年にさかのぼる。米国のタイコ・ラボラトリーズ社のリボン結晶太陽光電池に巡り合い、わたしは資源の乏しい日本には必要不可欠な技術であると考えた。

そして、1975年に京セラが51%を出資して松下電器産業、シャープにも声を賭け、モービル、そしてタイコ・ラボラトリーズと日米5社の共同で合弁会社「ジャパン・ソーラー・エナジー」という、太陽電池の開発、量産を行う会社を設立したとのこと。そのころ、大企業からベンチャーまで、他の多くの企業も参入してきた。

ところが、その後、太陽電池を使った応用製品の開発は進んだものの、太陽電池を電力源とする本格的な市場らしきものはなかなか育たなかった。また石油の需給が緩和し、社会はソーラーエネルギーに対する興味を急速に失っていった。

各国の研究開発予算も縮小し、小さな市場も消えてなくなる寸前となった。
新規参入した企業は倒産、撤退し、大企業も細々と研究開発にのみ注力するようになった。
この時代はソーラーにとって、最も困難な、まさに冬の時代であった。

ジャパン・ソーラー・エナジーも資本金を使い切り、これ以上、出資者に迷惑を掛けられないと考え、負債はすべて京セラが肩代わりするという条件で、京セラの100%出資会社とし、単独で事業を継続することにした。

その後、1986年にチェルノブイリ原発事故が起こり、1992年のリオサミットで地球温暖化問題が取り上げられるなど、少しづつではあるが、世界の関心はクリーンで安全なエネルギー源である太陽電池の方向に再び向かうようになっていった。

そして、1990年代半ばからは、日本をはじめ各国が、太陽光発電の普及促進に力を入れるようになっていった。規制緩和や各種助成制度が実施され、ようやくこの分野にも明るい兆しが見えるようになった。

2000年代に入り、ドイツ、スペインを中心に欧州で太陽電池の固定買い取り制度がスタートし、市場が一気に活性化した。この欧州の買い取り制度により、ソーラーエネルギー事業はようやく軌道に乗るが、各国が買い取り価格の抑制に動いたこともあり、その後、いったん沈静化の方向に向かった。

しかし、前述のように、2012年7月から日本でも、電力のいわゆる全量買い取り制度がスタートしたことにより、メガソーラーの計画が相次ぎ、現在、市場は順調に拡大傾向にある。

このような浮き沈みの激しい市場環境のなかで、機を見て各社が参入、撤退を繰り返してきた。
しかし、京セラは一切微動だにしなかった。必ずしも順風満帆とはいかなかったが、京セラは、「燃える闘魂」を抱き、執念をもって事業の火を絶やすことなく、営々とこの事業を継続してきた。

なぜ、そのようなことが可能であったか。それはやはり、「世のため人のため」という高邁な精神にもとづく「大義」があったからである。

以下続く

京セラ社内では、厳しい採算が続いていたソーラー事業に見切りをつけ、撤退することを検討してはどうかとの意見が過去にあったそうです。しかしながら、太陽電池は将来必ず社会から必要とされる事業になると確信していた稲盛氏は約40年にも渡り研究開発を続けながら事業を継続させてきました。

目先の利益にとらわれることなく、敢然と事業を継続した。
そのぶれない姿勢に京セラの経営理念が感じとれます。

京セラ 太陽光発電

 

投稿日時:2013.10.23(Wed) 19:59:52|投稿者:tokunaga