風の男 白洲次郎

「風の男」 白洲次郎  1902 - 1985

わずか2行の遺言書

白洲次郎

一、葬式無用
一、戒名不用

次郎は、義理で人が集まるような葬式を嫌った。
彼の言葉通り、葬儀は行われず、遺族だけが集まって
弔いの酒盛りをした。
享年83歳
最後まで自分の主義を貫いたのである。

白洲次郎

そのすべてが並外れた日本人であった
180cmを超す長身、際立った美貌。
1919年、17歳でケンブリッジ大学に留学した彼は、
勉学に励む一方、クルマの虜になる。
自由を満喫し、「オイリーボーイ」の青春を送った。

白洲次郎
(英国留学時代 親友のロビン(右)とともに 車はブガッティ)

英国紳士としての教養とマナーを身につけて、
日本語よりも英語を得意とし、自己のたてた「プリンシプル」(原理原則)
に厳格で、また、「プリミティブな正義感」の持ち主だった。

いつどんな時も、誰に対しても毅然とした態度を貫いた。
20世紀という激動の時代を生きた次郎は、やがて、
戦後日本の命運を預かる重要な役割を担うことになる。

1945年8月30日、連合国最高司令官ダグラスマッカーサーが
厚木基地に降り立つ。6年間に及ぶ日本の占領時代の始まりである。
鶴川の農家で畑仕事に精を出していた次郎は、
一転、ワンマン宰相・吉田茂の片腕として日本政府とGHQとの交渉にあたり、
日本の独立と復興に全力を尽くす。
次郎43歳

白洲次郎

高圧的なGHQの高官に対して、
少しもひるまず、見事なキングス・イングリッシュを駆使して
堂々と渡り合った。

日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない。

戦後、日本政府とGHQ(連合国総司令部)とパイプ役を勤め、
新憲法制定で重要な役割を果たした。

49年には貿易庁(後の通産省)の長官に就任。

51年には吉田茂首相に随行し、サンフランシスコ講話会議で
英語で予定されていた演説を日本語に変えさせた。

講和会議から帰国した後、
「僕は、政治家じゃない」と言って、一線から退き、
政治の舞台に二度と登場することはなかった。

白洲次郎(平凡社)

白洲次郎
日本の戦後復興のために尽力した白洲次郎は、
本当に気骨ある人であった。

たとえ相手が総理大臣であったとしても、
原理原則から外れた行動にたいしては、「No」と言った。

財政、外交、教育、多くの問題を抱えている現在の日本を変革できる人は、
白洲次郎のように、私利私欲を持たない高邁な志をもった人であろう。

我が国の国会議員や官僚の中に、目先の利益にとらわれることなく、

国家100年の計のヴィジョンを描き、国民を正しく導くことのできる人材を

見つけることは出来ないのだろうか?


 1980年、自宅前で愛車ポルシェと。
次郎は80歳の頃までハンドルを握り続けた。
これほどまでに白いナローポルシェが似合う日本人は
他にはいないでしょう。
ただただカッコいい。 

投稿日時:2010.07.21(Wed) 23:41:15|投稿者:tokunaga