徳永商店は、確かな製材技術でお客様のニーズに的確に応える木材製品をお届けします。
世界中の人々のライフスタイルに大きな影響与えた、
リンゴをトレードマークとする会社と言えば、
先ず最初に思い浮かぶのが、Apple Computer(現 Apple Inc.)で、
次がビートルズが設立したApple Corps社(アップルコア)ではないでしょうか
(特に50ー60年代生まれの人にとって、アップルの設立会見は衝撃的な出来事だったはず)。
両社に共通するのが、世の中が驚くような革新的な製品(音楽やコンピューターなど)を次々と生み出してきたということです。
リンゴマークが作り出す製品に魅了された私が両社についての思い出を少し話したいと思います。
先ずはApple Computerについて。
写真のスノーホワイト色の四角い箱は、
Apple社製の Macintosh SE/30というパソコンです。
これは、私が東京で会社勤めしていた1991年に購入したもので、私にとって初めてのパソコンであると同時に最初に触れたApple製品でした。
90年頃のパソコン(またはオフコン)と言えば、IBMやNECが一般的で、マニュアルと睨めっこしながら、キーボードを操作しているような時代だったと記憶しています。誰もが気軽にパソコンを使いこなす(コミュニケートする)環境はありませんでした。
そして、パソコンがオフィスユース(事務所に1台)からパーソナルユース(個人に1台)へと移行し始めた時に登場したのが、Macintoshでした。シンプルでコンパクトなそのフォルムは、一目見ただけで魅了するデザインでした。また、誰もが感嘆したのが、Mac OS GUI (graphical user interface マウスとアイコンでパソコンを操作する)の使い勝手の良さで、キーボードにコマンド(指令)を打ち込まずに、ポインターをマウスで動かして、画面上で指令ができるのは、とても斬新、革新的なものでした。
私みたいなコンピューターの門外漢にとっては、まさにうってつけのパソコンでした。
デザイン、質感、操作性に魅了された私は、以来現在に至まで20年に渡ってAppleの製品を使い続けることになりました。
私が使用してきた機種の変遷は初代のMacintosh SE/30に始まり PowerBook5400c , PowerBook G3 , PowerBook G4 , iMac ,そして MacBook Proと続いています。
因に最初に購入したSE/30は50万円くらいしました。付属しているソフトはワード、表計算、DRAWなどで、今のパソコンの性能と比較するととても費用に見合うだけのものはありませんでしたが、それでも、当時のパソコンとしては画期的な性能でした。
Apple社の浮沈の歴史を見つづけながら、Appleを使い続けている私とAppleの関係は、竹馬の友と言っても過言ではないでしょう。20年の長きに渡り、1社の製品だけを使い続けているのは、他の製品ではありませんから。
Apple社のスティーブ ジョブスCEOは、 会社設立以来、独自の美学に基づいた(しかしながらユーザーライク視点での)製品を作り続けたからこそ、他社とのクオリティーの違いを求めるファンに愛され続けられているのではないでしょうか。もの作りにおいては、このこだわりが重要な差別化につながります。
そして、21世紀はインターネットの時代であると早くから気づいていたジョブスは、いち早くネットを軸としたビジネスモデルの構築に成功しました。それが凋落していたアップルの業績を奇跡的な復活へと導きました。
さらにはアップルの最近の株価の時価総額が、マイクロソフト社の時価総額を抜いたというニュースには驚くばかりです。
それは物つくりに対して貪欲であり続けたジョブスの「執念」が結実した瞬間だったのかもしれません。
つづく
先日ブログで紹介しました
Dining & Bar MONAURAL(ダイニング&バー モノラル)
宮崎市青島2丁目8−28
TEL 0985 - 71 - 1755
お店のオーナーの椎さん(若くて好青年)とは、弊社のHPを見ていただいたことがきっかけとなりお知り合いになりました。
それ以来ご贔屓にしていただいております。さて、過日お店に伺い、ご購入していただいた木材がどのような感じで使われているのか見せて頂きました。
オーナーの話では、元々は長い間空き家になって住宅を借り受けて、ハンドメイドでお店の内外装を自らの手でひとつひとつ作り上げて行ったとのことです。
更に、屋根の改築工事までも自分でされたとのことでした。
もういっぱしの大工さんですね。
そんなオーナーの想いが込められたお店の写真を紹介します。
青島にお出かけの際には、是非お立ち寄りください。
オーナーのハンドメイドとは思えないくらい、素敵な作りの内装です。
西都原古墳群に咲くたくさんのヒマワリ
西都市が口蹄疫からの復興への願いを込めて
シンボルの花として6月に植えたそうです。
ヒマワリの花言葉は「あこがれ」「光輝」「熱愛」「崇拝」
西都市 商工観光課では
「口蹄疫で暗くなったまちが元気に、光り輝くようになって欲しい。太陽に向かって育つ
ヒマワリのように復興に向けてまっすぐ進んでほしい。」
との思いを込め種をまいたとのこと。
太陽に向かって咲くヒマワリは、見た人を元気づけてくれることでしょう。
西都市の心遣いは本当にうれしいですね。
太陽に向かって咲く向日葵。 日差しをいっぱいに浴びて、元気に育つ人のようにも見えます。
撮影日 7月25日 西都市 西都原古墳群)
「風の男」 白洲次郎 1902 - 1985
わずか2行の遺言書
一、葬式無用
一、戒名不用
次郎は、義理で人が集まるような葬式を嫌った。
彼の言葉通り、葬儀は行われず、遺族だけが集まって
弔いの酒盛りをした。
享年83歳
最後まで自分の主義を貫いたのである。
白洲次郎
そのすべてが並外れた日本人であった
180cmを超す長身、際立った美貌。
1919年、17歳でケンブリッジ大学に留学した彼は、
勉学に励む一方、クルマの虜になる。
自由を満喫し、「オイリーボーイ」の青春を送った。
(英国留学時代 親友のロビン(右)とともに 車はブガッティ)
英国紳士としての教養とマナーを身につけて、
日本語よりも英語を得意とし、自己のたてた「プリンシプル」(原理原則)
に厳格で、また、「プリミティブな正義感」の持ち主だった。
いつどんな時も、誰に対しても毅然とした態度を貫いた。
20世紀という激動の時代を生きた次郎は、やがて、
戦後日本の命運を預かる重要な役割を担うことになる。
1945年8月30日、連合国最高司令官ダグラスマッカーサーが
厚木基地に降り立つ。6年間に及ぶ日本の占領時代の始まりである。
鶴川の農家で畑仕事に精を出していた次郎は、
一転、ワンマン宰相・吉田茂の片腕として日本政府とGHQとの交渉にあたり、
日本の独立と復興に全力を尽くす。
次郎43歳
高圧的なGHQの高官に対して、
少しもひるまず、見事なキングス・イングリッシュを駆使して
堂々と渡り合った。
日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない。
戦後、日本政府とGHQ(連合国総司令部)とパイプ役を勤め、
新憲法制定で重要な役割を果たした。
49年には貿易庁(後の通産省)の長官に就任。
51年には吉田茂首相に随行し、サンフランシスコ講話会議で
英語で予定されていた演説を日本語に変えさせた。
講和会議から帰国した後、
「僕は、政治家じゃない」と言って、一線から退き、
政治の舞台に二度と登場することはなかった。
白洲次郎(平凡社)
日本の戦後復興のために尽力した白洲次郎は、
本当に気骨ある人であった。
たとえ相手が総理大臣であったとしても、
原理原則から外れた行動にたいしては、「No」と言った。
財政、外交、教育、多くの問題を抱えている現在の日本を変革できる人は、
白洲次郎のように、私利私欲を持たない高邁な志をもった人であろう。
我が国の国会議員や官僚の中に、目先の利益にとらわれることなく、
国家100年の計のヴィジョンを描き、国民を正しく導くことのできる人材を
見つけることは出来ないのだろうか?
1980年、自宅前で愛車ポルシェと。
次郎は80歳の頃までハンドルを握り続けた。
これほどまでに白いナローポルシェが似合う日本人は
他にはいないでしょう。
ただただカッコいい。